平将門ミニ知識


平将門とは・・・

 平将門は桓武天皇(平安京遷都の天皇)五世の孫で、下総の国(今の茨城県)に生まれ、若くして伯父達との所領争いに勝利した後土地のボスになりました。

 将門36才の時、武蔵の国の国司と郡司のいざこざを仲裁し、坂東で一躍その名を馳せましたが、後に藤原玄明という罪人をかくまった事から常陸の国府と対立、国府を焼き討ちしてしまいました。さらに、彼を煽る者(武蔵権守興世王)も現れ、その気になった将門は瞬く間に坂東6ヶ国を手中に収めてしまいました。

 戦勝祝賀会の最中、神憑りした巫女が八幡神(応神天皇)のお告げとして「朕の位を授ける」と叫んだことから、都の”天皇”に対して自らを”親皇”と称し坂東独立国を宣言しました。

 しかしながらその後、将門を討伐にきた朝廷軍との戦いに利あらず、今の岩井市において俵藤太秀郷(ムカデ退治で有名)により弓で射られ討ち取られてしまいました。
時に将門38才。

              (色々な本からの抜き書きなので、間違っていたらごめんなさい!)


将門は日本三大悪人の一人・・・

  戦前の皇国史観では、将門は朝廷に対して反乱を起こしたという事で「日本三大悪人」の一人とされていました。
 ちなみに他の二人は・・・
    弓削道鏡(称徳女帝の寵愛を良いことに、臣下でありながら皇位を狙った)
    足利尊氏(後醍醐天皇の建武の新政を崩壊させた)
 とのことです。

 そういえば私の通った高校の校歌に
    「昔天下を睥睨(へいげい)の 東男の魂は 尚三寸の胸にあり・・・」の歌詞があり、戦前は校歌を歌えな
 かったという話を先輩から聞いた事があります。(改めて読み返すといい詩だと思いますが!) 


東京神田明神の御祭神は平将門・・・

 秀郷によって討ち取られた将門の首は京でさらされたが、縁者がひそかに持ち帰り、武蔵国豊島郡芝崎(現在の大手町)に
葬りました。現在もその位置にある将門塚だそうです。

 そして、将門の死より360年ほどたった鎌倉時代末期の1307年に、この地を訪れた時宗の真教上人が、塚の傍らにあった
社が荒れ果てているのを修復し、将門の霊を祀って「神田明神」と改称したのだそうです。

 しかし、明治維新後、明治天皇が神田明神に参拝しようとしたとき、神社側は「反逆者の霊に御親拝頂くのは畏れ多い」と
将門の霊を別殿に移し、空いた神座に少彦名命(大洗神社から勧請)を祀りました。

 ところが、戦後になって皇国史観が廃され歴史上の人物が再評価されるようになり、ついに1984年ほぼ110年ぶりに神田明神の
神座に復帰しました。
                                               (小学館 井沢元彦著「逆説の日本史」より抜粋) 

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